昭和45年8月26日 朝の御理解 (信太郎)
御神訓一 神徳を受けよ、人徳を得よ。
(途中)・・・善人になって行くのである。人に嫌われる人も、信心をするようになって、人に好かれ、人に信用されるという生き方。それでないとね、本当なおかげには、絶対になりません。で、今日はそこんところを、一つよく分かって頂きたいと思います。ありましょうが、皆さんの、もう人徳を持って生まれて、備えておるという人があります。ところが、そういう人徳はね、本当の人間の幸せとか、まあ、極端に言うなら極楽行きのそれには全然関係はないという事です。ね。人間がね、持って生まれた、例えば人に好かれるとか、嫌われるとかといったようなもの。ね。一般で言う、だから人徳ではない訳ですね、教祖が仰っておられる人徳。ね。だから、神徳を受ける事を先に。だいたい、一番難しい事ですよね、神徳を受けるなんていう事は。けれども、神徳を受ける事を、先に神徳を受けよと、こう言う。その受けた神徳、その信心によって、あの人は間違いがない人だというようにですね、人の信用も、なおついて来るという、そこんところを、得よという事を、得という事を書いてありますね、行人偏に、得するとか、損するとかと言う得。ね。ですから、信心をする事によって、人間の、信心をする事に寄らなければ、人間の本当の幸せはないという事になります。これは、人徳を得よという事はね、神徳を受けて、人徳を得るという事はね、これは、人徳というだけじゃないです。言うなら、物の徳、金の徳。ね。全ての、だから、ここ例えば、神徳を受けよ、金の徳を受けよ、健康の徳を受けよという事にもなる、得よという事にもなるのです。これは、だから、人徳だけに限った事じゃない。神徳を受け、人徳を得よとこう。神徳を得よ、金の徳を得よという事になる。けども、ここには神徳を受けよ、人徳を受けよと仰せられてあるから、まあ、人徳というところに絞ってお話を聞いて頂いてる。ね。でないと、おかしいですよね。生まれ付き人徳を持って生まれた人もありゃ、持たずに生まれて来た人もある。生まれつき人に愛されるものを持っておる人、愛されないものを持っておる人。神様はそんな不公平な事をなさるはずはないです。だから、そういう事は問題じゃないという事です、まず。それはね、例えば、人間の幸せには繋がらないて。そういう、人の場合、人に好かれるとか、その、普通で言う、人徳を持っておる人が必ずしもお金に恵まれるちゅう事はないでしょうが。いわば、清貧に甘んずると、非常に人徳を、あれ人徳はあるけれども、お金にはいつも恵まれちゃないという人があるでしょうが。だから、あの、教祖様の仰っておられる、ここの神徳と人徳というのはですね、人徳というのは、もうお互いがギャッと生まれてこの世に出たが最後、同じだという事。一視同仁なんだ。ね。それは、生まれ付きに器量がええとか、悪いとかもありましょう。心がええとか、悪いもありましょう。何とはなしに憎めない、人に愛される人もありゃ、もう何とはなしに、あの人は虫が好かんという、という人は誰からでも嫌われるようなものを持っておる人があります。だから、それでも良いて言うのです。先ず、神徳を受ければ。ね。だから、先ず神徳を受けるという事からね、頂いて、それから、それについて来る人徳。教祖の神様の言われる人徳というのは、ちょっと違いますね。私は、よくその、自分で学問がないから分かりませんけれども。普通で言う、人徳があるというのは、あの、(仁徳てんの?)の仁ですね、人偏にこう、二を書いた。あれを言うのじゃないかと思うですね。ね。仁徳。確かに、生まれながらにして仁徳を持った人があります。んなら、仁徳を持っておるから、その人が幸せかと言うと、そうではない場合も沢山あるということ。一生、お金には恵まれんで済まれた。非常に仁徳は高かったけれどもと言うのは、この人の徳というのじゃなくて、人偏のこの徳じゃないかと。これは、もう私が良くは分からんけど、まあ、そんな風に、一つ区別して頂かないかん。ここで言う仁徳というのはね、そういう、生まれてから、生まれ付きに持っておる物ではないと。信心をする事によって生まれた物だけを、ここでは、私は言うておられるという風に、今日は頂いて頂きたいと、こう思います。ね、ですから、誰でも、だから誰でも同じ、いわゆる一線上に立っての信心。その信心のいかにに寄ってです、人徳というものがついて来るという、ね、得て行かれるという、私は徳を、人徳と言う。この人徳には、ね、いわゆる、普通人間が、まあ、何と言うですか。シナの孔子とか孟子とかというような方達が言われた人徳とは違うわけです。ね。あれは仁徳の事であろうと思う。なるほど、ここの信心はね、信心は大きいと思うね。修養とか道徳とかといったようなものじゃ、だから、さらさら、根本的に違う事が分かりますね。修養じゃないです、道徳的に生きようというのじゃないです。ところが最近はね、その修養とか道徳的な生き方を、まるきり金光様の御信心のように言う人があります。それは間違いです。ね、金光様の御信心は、どこまでも金光様の御信心。言うなら、教祖様の教えて下さる信心というのは、そういう事じゃない。まあ、それを言うならば、何時の場合でも、道徳的と言うよりも、むしろ、ね、非道徳といったような場合すらある。まあ、それを、私は超道徳と、こういう風に申します。そこでです、ね、神徳を受けよ、人徳を得よと。信心をさせて頂く。ね、何もない一線上に立って、これから金光様の御信心を頂いて行こうと言うのである。ね。そこから、いわゆる神徳が受けられ、その神徳に付いて来る人徳。これだったら、人間の幸せというものが、そこにハッキリして来る。それには必ず、いわゆる金も、金の徳も、(やら?いわゆる?)物の徳も全てのお徳というものが恵まれる事になる。そこんところを、皆さんは分かりませんとね、ようと腹に入れてからお話を頂きませんと、仁徳と人徳を一緒にしてしまいますよね。あちらは人物が出けてござる、なかなか人物がいいと。それとは、全然違うということ。ね。いわゆる、信心によって、立派な生き方が出けるようになるというものだという事を申しましたですね。しかも、その人徳には必ず、いわゆる御利益ですね。おかげが必ず伴うものだということ。神様の御信用を頂いて。人間の信用を得て、ね、いわゆる、生活をさせて頂くという事は、どういう事であろうか。ね。人に好かれるものを持っておっても、人徳はあっても、難儀してござると言うなら、ああ、つまらんです。ね。私は昨夜、この少年少女会を中心に、青年会の方達が中心になって、あれを、詠歌を囲んでの、いわゆるキャンプファイヤーと言うですか。それこそ、夏の夜空を焦がすような詠歌を囲んでの様々な模様し事と、というような、様々な事がありました最後に、この電気、周囲の電気の一切が消されて、その詠歌を囲んで皆さんが最後のお別れの歌を歌っておられる時に、私はもう、どうにも出けんほどの感動を、まあ、覚えました。何と言うでしょうか。もう、理屈ではないですね。本当にあの、最後のあの、言うなら場面だけでも皆さんに見てもらいたいと思いました。何ちゅうですかね。やはり、一つの信仰的感動でしょうね。そういう感動を持って、昨日、それが終わらせて頂いた後に、神様にお礼を申させて頂いておりましたらね、子供達が皆、神露は甘露と神様へ向かって叫んでおるところを頂きました。神露というのは、神の露。甘露というのは、ね、甘木の甘ですね、甘い露と書いてある。同時に、私は、あの、神露という事を、進んで行く道という風に頂いた。進む、進む道、神露。ね。はあ、本当にあの、少年少女会の若い方達の心の中にです、焼き付くように、ああいう一つの感動的な場面がこう印象づけられる、心に刻まれて行く。ね。それが、その、信心によって、それが受けて行かれるということ。いわゆる、いわば、大人の信心とは違って、もう純粋に、いわゆる信心。いわゆる、おかげを頂かなければならんから参るといったようなものではなくてですね。もう、純粋な、その甘露。この、天理教では、甘露(だい)という事を申しますね、あの甘露です。それが、成長の家などでは、甘露の(ほうふ)といったような事を申しますね。(ほうふ)というのは、(ほう)の雨。ね。甘露。もう、神様のお恵みが降り注いでおると言うのでしょう。ね、甘露だいと言うのも、やっぱそうでしょう。本当に信心によってだけしか頂かれない、信心の喜びの土台という意味でしょうか。甘露。私は、天理教の事でよく分かりませんけれど、とにかく、やはりその、甘露という言葉が使ってあります。私は、今日頂きますのも、いわゆる子供達が、その神様に向かって、こう叫ぶようにして言っておるのが、神露は甘露と。ね。そうして、今日の教典を開かせて頂きましたら、神徳を受けよ人徳を得よというところを頂きましたから、その神露と甘露とを結び合わせて、今日お話をしております。そこで、神露を神徳と頂くなら、甘露を人徳と、まあ、頂かなければならんだろう。ね。神露を受けよ、甘露を得よという事になるのじゃないでしょうかね。神様のお恵みというものは、さっきも申しますように、悪人であろうが、善人であろうが、同じにある、頂いておる。この世に生まれて来た時に、お互いが神の氏子として生まれたという事は、皆同じだ、一視同仁なのだと。ね。神露であります、神の恵み。受けて来ておる。そこから、なら、人徳を得て行くというのがです、普通で言われる、あの人は人徳があるというような事になって来ると、神様も、私は不公平だと思う。あの人には、人に好かれるものを持たせ、この人には、人に嫌われるようなものしかなってないなんて言うなら、これは神様も不公平だと思いますよね。けれども、今日頂く御理解を頂きますと、不公平ではなくて、公平だという事になりましょうが。そういう事は、人間の幸せには繋がらないと言うのですから。ね。人徳があるから、必ずその人間が幸せという事じゃない。人徳があっても、お金は一つも儲けきらん人があるし、人徳はなかってもお金はどんどん儲けて行くという人もありましょう。これは、お金だけに限った事じゃありません。ね。だから、神様はなるほど、一視同仁におかげを下さってある。神の氏子としての神露、神の恵みを与えてござる、みんなに。そこから、お互いが信心をさせて頂く事によってです、付いて来るものが、人徳なのである。ですから、もう皆が一線上にある訳です。だから、信心をするか、真の信心をするかしないかという事に、違いがあるだけの事です。私は器量が悪いからと言うて、悲観する事になる。ね。私は人にどうも好かれんタイプだからと言うて、その事を不足を言う事もいらん。んな、だから言うちゃ勿体無い、むしろ。神様に頂いておる物は、皆同じ。そこで、お互いが信心をさせてもらい、真の信心を目指す。神露は甘露である。ね、進んで、これからその一線上に立って前進させて頂く。目指すところは、神露を目指すのである。だから、神露を目指すという事は、ここに、ね、これは人間のやはり精進、努力によって神露を得られるという事になる。そうですね。いわゆる、神露台に上る事が出けるのであり、神露の(奉?)を受ける事が出けるのである。ね。それを、どういう事かと言うと、私はさっき、その甘露という事も意味はよく分かりません。成長の家辺りで言っておられる甘露のほうふとか、天理教に言うておられる甘露台とかという、その同じ字が使ってありますけど、意味は分からんけれども、まあ、同じような事ではなかろうかと思う。それは、信心による喜びだと思います。これは、信心を頂かなければ頂けない喜びなのだ。ね。言うならば、有り難き、勿体無き、恐れ多きだと思います。ね、その有り難い、恐れ多き、勿体無き、いわゆるその、甘露のほうふと言うか、甘露の喜びをです、甘い露をですね、甘い露の喜びを受ける為には、どういう事にならなければならないかと言うとです、ね、いわゆる御利益本意の信心からは絶対に生まれて来ないです。それは、家庭において、また、実際はあっても良いです。けれども、それからは生まれて来ないです。ね。御利益も頂かなければなりませんから、お取次ぎを頂いておかげを頂いて行きます。けれどもです、それが信心じゃない。それが本当なもんじゃない。信心はどこまでも、ね、神露は甘露であり、進む道はどこまでも、甘露を目指しての、信心の喜びを目指しての信心であり、修行でなからなければならないという事になるのです。ね。進んで行く道。私どもがその一点を目指して進んで行く、信仰して行く。その目指すところは、いわゆる信心の喜びを目指しての信心でなからなければならないという事になります。そこで、信心の喜び。いわゆる、甘露の喜びというものをです、甘い露の喜びというものを、なら、身に受ける事のために、私どもは、どう在らなければならないかという事になるです。皆さん、そこへん分かるでしょうか。ね。甘露台に立つ、甘露のほうを、いわば濡れるほどに頂かせてもらう。心の中から湧いて来る有り難い、信心の喜び。いわゆる、まあ、法悦という事でしょうかね、仏教の言葉で言うと。信心をさせて頂かなければ。そこんところからです、信心のあるもんと、ない者は、親のある子とない子ほど違うという事になって来るのです。ね。この世に生を受けさせて頂いて。ね、神の氏子としての、これは同じ、みんな。器量が良かろうが悪かろうが、心が良かろうが悪かろうが、もう一線上に出ておる。人徳があるとか、ないとかというような事は、普通で言う人徳といったようなものは、もう全然問題じゃない事になる、御破算になる。ね。言うならば、そのゼロのところから私どもがです、信心のあるモンとない者の違い。進路が違う。進んで行く道が違う。ね。ただ、お金さえ儲かりゃよかと。いわゆる、地位やら名誉やらを得さえすればよかという生き方とです、ね、目指すところは、どこまでも甘露である。神露は甘露である。ね。そこからね、神露を求めての信心。そこから、神様の御信用が受けられてくる。それを、神徳と言う。その神徳に伴うて頂けてくるのが、人徳である。ね、いわゆる、神徳人徳を兼ね備えるというのは、だから、信心を頂かなければ、頂けないという事が分かります。普通、信心を抜きにして言うておる人徳といったようなものは、今日は人徳ではないと、私は言うておる。いかに人徳があったって、貧乏しとったら、つまらんじゃないか。いくら人徳があったって、いつも病気しとったじゃつまらんじゃないか。ね。だから、それはシナ辺りで言う、仁徳です。ね。孔子様や孟子様が言われる仁徳です。金光様の御信心で言う人徳というのは、それとは全然意味が違うて。信心の徳によって付いて来るもの。まあ、言うなら、あの人は本当に人に好かれん人じゃったけれども、金光様の御信心を頂かれるようになられたら、ね、本当によか人に変わって行きよんなさる、というものでなかにゃいけんということ。ね。だから、人物がええとか、悪いとかという事は問題じゃない。皆さん、そこんとこを、今日は良く分かって頂かにゃいかんと思う。ね。でないと、神様はあまりに不公平だ。ね。生まれ付きといった者に、ね、信心によって初めてそっから得られて来るもの。いわゆる、得られるそのね、人徳を得よとこう。それが人徳なのだ。そうなって参ります時に、神様はなるほど、一視同仁におかげを下さってあるという事が分かる。ね。神露を、いわば人徳。甘露を人徳と。ね、神露を神徳、甘露を人徳という風に、今日私は申しましたですね。同時にです、神様はなるほど、一視同仁におかげは下さってあるという事を、今日は皆さん、分かって頂きたいと思います。ね、信心をする事によって、その、これから進んで行く道。進路ですね、いわゆるこれは。これは進む道。進む道がです、神露を目指しての生き方と、ただ人間の我情我欲を目指しての生き方。そこに、信心のある者とない者は、親とある子と、ない、ある子とない子ほどの違いが、そこから生まれて来るんだと。そこで、なら、信心をしておってもです、神露を甘露というところに焦点を置いていなかったなら、それはもう、信心のないも、と同じ、五十歩、百歩だということ。ね。信心に寄らなければ頂けない喜び。それを、私は神露という風に今日は頂いたですね。その神露を目指しての信心。それが、例えば昨夜のようにです、ね、若い方達。いわゆる、少年少女会の人達がです、純粋な、いわゆる信心を求めてです。ね、これから、いわゆる甘い露、信心の喜びを目指して。例えば、私どもが見ておってからでも受けた感動。それを、いわば中心になっておる青少年の方達はなおさら、その感動が深かった事であろう。そういう感動、そういう信心に寄らせてもらう喜び。そういうものをです、育てて行く事に誰よりも、人間が長いという事がです、いかに、若い時に本気で信心をして、土台を作っておかなければならんか、といったような事を特に感じます。ね。御利益を頂かんならんから、まあ、50から60から信心を始めたと言うとは(だだめ?)が違う。と言うて、んなら、50から、60から信心をはじめた人はつまらんかというのじゃない。そこんとこの道理が分からせて頂いて、ああ、本当にこの世に生を受けながら、ね、何十年間という、いわば自分の生き方は、ただ地位とか、名誉とか、財産とかといったような事にだけ、自分が目指しておった事に気が付かせて頂いて。元んところに戻らせてもろうて、本当の神の愛を知り、本当の神の道を知り。信心の道を知って、これから目指すところは、いわゆる甘露。これからの、神露は甘露という事に向きが変えられるならばです、ね、そこに、甘露のほうを受ける事が出けるであろう。甘露台に立たせて頂くことが出来るだろう。ね。そこに初めて、神徳を受けて、人徳を得て行かれる、人間のいわゆる、足ろうた幸せ。ね。人徳があっても、貧乏しとったら、もう、足ろうた幸せとは言えんでしょう。ね。神徳、人徳を兼ね備えさせて頂けれる道をです、教祖様は教えておって下さるのですよね。どうぞ。